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日本大学通信教育部・経済学部・経済学科 |
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科目コード:0720 |
学科必修科目 |
更新日 : 2009/06/18 |
提出したリポート、頂いた講評、科目修得試験に出題されそうなポイントなどを掲載してあります。 |
おことわり |
☆ 特に断りがない報告課題は、「平成17・18年度報告課題」(有効期限2005年3月1日〜2007年3月31日)です。 |
☆ 「科目修得試験に出題されそうなポイント」は、あくまで森野個人が学習する際に分析したものです。 |
☆ 内容についてのお尋ねはご遠慮下さい。 |
課題 イギリスにおける産業革命(一般には1760〜1830年代頃を指す)は、従
来、近代的な機械性工場工業、具体的には綿工業の出現を中心とした工業技
術の革命的な変化による農業社会から工業社会への転換であると説明されて
きた。しかし、この転換には、道路・運河・沿岸航路(鉄道は、産業革命の
終了後に登場するものである)などの輸送・通信網の発展、いわゆるインフラ
ストラクチャのめざましい発展による財(商品)と人間の絶えざる移動と、
信頼される貨幣を広範囲に供給する金融・信用システムの整備による貨幣経
済の浸透が重要な役割を演じている。すなわち、生産、輸送・通信、金融・
信用の三位一体的な発展そして、産業革命を理解してこそ、産業革命を19
世紀市場社会の生みの親であると言うことができる。次ページの文献を参照し
ながら、そうした視点に立って、イギリス産業革命の主要なプロセスを説明
せよ。
イギリスを「世界の工場」にした、技術と経済組織の変化を最も早く達成したのは、綿工業と製鉄業だった。 1769年アークライトが水力紡績機を発明し、家内工業で生産されていた綿織物が工場制工業に移行し始めた。1785年になると水力に代わって蒸気機関が用いられるようになった。こうして1830年になるとイギリスの国産輸出品額の半分以上を綿織物が占めるようになった。製鉄業は当時深刻な原料不足(主として燃料の木炭)に悩まされていた。蒸気送風機によってそれまでの木炭に代わってコークスを燃料とすることによって生産高は2倍になっていたが、 1783年に攪拌精錬法が発明され生産高は4倍となった。1760年に3万トン程度だった銑鉄の年間生産高は、1810年頃には100万トンを超えていた。製鉄業の発展は、イギリス国内の鉄鉱石と石炭の需要を増大させた。これらかさばって重い財貨を輸送する最も安価な方法は、水上交通であった。イギリスでは島国である特徴を生かして、まず沿岸航路が発達した。そして 18世紀後半から19世紀初頭にかけて、インフラストラクチャとしての運河が発展した。これらの運河は、まず炭坑から工業都市へ石炭を輸送する目的で建設された。1858年にイギリス全土の内陸水路は約4250マイルに達していた。この結果、石炭の輸送コストが大幅に引き下げられるとともに、安定供給が確保できるようになってストックのコストもまた減少した。その結果石炭の価格は半分程度になった。イギリスが史上最初の産業革命を開始できた有利な条件の一つは、金融・貨幣制度がすでに発達していたことである。 1694年に設立されたイングランド銀行は、1700年には輸入される金を貯蔵し始め、金準備の中心となるなど、1750年代までには政府の銀行としての地位を確立していたが、いまだ貨幣供給を統制する中央銀行ではなかった。当時、鋳貨とともに使用されていたのが銀行券であった。銀行券とは請求のあり次第、持参人に一定額を支払うことを約束したもので、いつでも交換可能な現金と同等なものとして使用されていた。イングランド銀行だけでなく個人銀行もそれぞれに銀行券を発行していた。ロンドンでは 1770年代にイングランド銀行以外の銀行券は廃れてしまったが、地方ではイングランド銀行券は一般に使用されず、イングランドの地方銀行やスコットランドの銀行が発券した銀行券がそれぞれの地方で流通していた。1780年代末でも地方では、請求のあり次第支払われる持参人払い銀行券が一般的だった。なぜなら 18世紀後半の商工業者が、絶えず苦労しなくてはならなかった問題の一つに、労働者の賃金支払いに用いる少額の現金が欠乏していたことが上げられる。当時、ロンドンと各地方の敏速な輸送は当時危険かつ困難であり、商人達は多量の鋳貨を持って往来することを好まなかった。インフラストラクチャの内、道路の改良は 1750年代から始まるが、それは都市の発展の結果、農業後背地から都市へもたらされる食料品と燃料の需要が高まったために進められた。道路の水準は1750年〜1830年の期間に著しく上昇し、駅馬車の所要時間が短縮され、交通量も増した。その結果人的接触が盛んになり、商業上の情報がより頻繁に交換されるようになった。しかし駅荷馬車の普通の速度は1829年になってもまだ1日20マイル程度だった。このような交通事情から、多くの雇用主が、地方の商人のところで兌換できる約束手形や代用貨幣で労働者に支払いをするようになっていた。数百にも及ぶ小さな地方銀行(1821年当時約 800行)が、1ポンド、2ポンドといった少額の銀行券を発行したのは、こうした貨幣需要に対応するためでもあった。これらの銀行はその地方の富裕な人々の資本を、その地方の工場や製鉄所などの資金需要を満たすための役割も果たし、産業革命の進展に貢献した。 法により大規模化することが禁止されていたこれらの銀行は、いずれも小規模で専門的ではなかった。地方銀行家の大半は他の事業を主業としていた。しかもそれぞれの銀行がまちまちな規則とやり方で営業していたので、信用面で脆弱な銀行も存在していた。1809年から1830年の間に311の地方銀行が倒産していた。こうした事態を受けて政府は 1826年、地方銀行の5ポンド以下の銀行券の発券を禁止し、イングランド銀行に全国で支店を設ける権限を与えた。1797年イングランド銀行は5ポンドより少額の銀行券発行を法によって認められ、法定貨幣となっていたが、1844年に銀行券の発行権をイングランド銀行に集中させる銀行条例が出され、ここに国家として統一された金融・信用システムが確立した。 |
参考文献 | ||
『イギリス産業革命分析』 | フィリス・ディーン | 社会思想社 |
『経済史の理論』 | J・R・ヒックス | 講談社学術文庫 |
講評
概ね題意にそった叙述がなされています。但し、最後に総括的結論がもうけられていれば、さらによかったでしょう。 |
課題 1870年代末から1914年までは、帝国主義の時代と言われているが、この時
代のヨーロッパ列強(イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、オーストリア=
ハンガリー)の経済発展にみられる特質(例えば、保護関税政策の採用、重
工業の発展、中小農業経営の危機など)、それらの国内で台頭した帝国主義的
思潮・思想・運動(例えば、差別的人種思想・氾民族主義、大衆参加の労働
運動や社会主義思想など)、列強相互間の対立と妥協(例えば、植民地の獲
得、政治・軍事同盟の締結など)を概括し、それらが、第一次世界大戦を導
いた理由を述べよ。少なくとも、次ページの文献を参照せよ。
資本主義経済の基本的リズムを形成する景気循環は 1873年から1890年代なかばに至る時期に非常に深刻な不況を発生させた。資本主義経済が世界的規模になるにつれて、先進各国の工業化と大不況が、先進各国国民経済を相互に競合する経済集団に変え、ある国の国民経済の利得が、他の国民経済の地位を脅かすかに見えた。1870年代末にドイツとイタリアの繊維製品に端を発した保護関税は国際経済の舞台における恒久的な要素となった。19世紀半ばの自由貿易・自由競争の自由主義的世界から離れ、19世紀末までに、イギリスを除く全ヨーロッパの主要大国は、すべて保護関税の導入に踏みきった。そのイギリスは当時、世界最大の工業製品輸出国であり、逆に世界の一次産品の最大の輸入国であった。資本、金融・通商業務、輸送業務について比較する相手がいないほどの輸出国だった。ゆえに自由貿易はイギリスにとって不可欠なものだった。 保護主義は当時の国際的な経済競争の状況を表していた。例えば、イタリアが三国同盟を 1891年に更新する一因になるなど、関税自体が有力な外交の武器となった。差別関税は、大国がその意志を小国に押しつける手段としてしばしば利用された。そしてドイツにとってイギリスの自由貿易廃止運動や保護関税導入の動きは「太陽の当たる場所」をドイツ人にあたえまいとするイギリス人として映り、逆にドイツ関税法はイギリス人にとってカイザーの侵略的な「世界政策」を疑うなど、相互不信の種となった。しかし実際には保護主義は全面的でなかった。工業保護政策は総じて自国の工業が国内市場を目標とするよう勧めることによって、世界の工業基盤を拡大するのに役立った。偶然ではあるが、各国の国内市場も急激な勢いで成長しつつあった。 1880年〜1914年の世界の生産と通商の増大は、自由貿易の時代より目覚ましかったとされる。例えば1913年に至るまでの30年間でドイツの工業品輸出はイギリスの輸出額の半分以下からイギリスを上回る額へと増大した。農業物生産は、例えば西欧社会での消費用小麦について 1910〜13年には1870年代の約二倍の量を入手することができるようになるなど、大幅に増大した。これまで、ヨーロッパの農業は高い輸送コストによって海外、一次産品の生産に専念するカナダやアルゼンチン、ロシア等の外国との広範囲にわたる競争から保護されていた。外国からヨーロッパへの大量の農作物流入によって、1894年の小麦価格は1867年価格の約三分の一になった。 イギリスはすでに小規模農家が存在していなかったので自国の食料生産を衰退するにまかせていた。1875年〜95年に小麦畑の面積は三分の一になった。フランスやドイツは保護関税で農作物価格の維持に努めた。しかし農作物価格の崩落は大量の海外移民や都市への流入者を生み、彼らは当時の労働集約的な工業における労働需要を満たした。1880年代以降、こうした多数の労働者の組織化が大衆的な労働運動や社会主義運動としてヨーロッパ的規模で起こった。また多くの移民はあからさま、あるいは潜在的な社会的緊張を生み出した。移住者は同胞意識を持ったし受け入れる側にとっては外国人は昔ながらの生活の崩壊とそれをもたらした資本主義とを象徴するようになった。ナショナリズムは、自由主義の危機から出現した右翼の運動を育み、またそれによって鼓舞された。 また、ほとんどすべての人々が19世紀文明の根底にある差別的人種思想を心底まで吹き込まれていたので、人々は自分の所属する階級もしくは国が他の者に比べて本来的に優れていると信ずることから生じる誘惑を受けやすかった。 19世紀末および20世紀初頭の帝国主義対立はしばしば列強のヨーロッパにおける戦線配列に影響をあたえた。どの国の政府も「大国の地位を維持、ないしは大国になるためには、植民地をもたねばならない」という意識にとりつかれていた。ヨーロッパとアメリカ大陸を除く世界の大半が、一握りの国々の植民地として分割された。 1890年代の主要な帝国主義の対立は、アフリカにおける英と仏、極東での英と露の対立であった。しかしドイツが海軍拡張に乗り出すと、イギリスは多くの植民地がすでに経済的に資産ではなく負債となっていたにもかかわらず、大英帝国の経済的優位を保つことが重要となった。特定の植民地問題でドイツとイギリスは対立していなかった。ドイツ海軍がイギリスの戦略的交通線と世界貿易に挑戦しつつあるという不安感、イギリスの地位に対してドイツが一般的に挑戦したからこそイギリスは危機感を持ったのである。 そして当時、戦争それも少なくとも勝ち戦になるという期待が社会改革などよりも大きな固有の扇動力を持っていた。 |
参考文献 | ||
『帝国の時代 1875-1914』T・U | E・J・ホブズボーム | みすず書房 |
『第一次世界大戦の起原』 | ジェームス・ジョル | みすず書房 |
講評
題意にそってよく書かれています。内容、構成ともによいでしょう。結論がもっと充実していると、さらによかったでしょう。 |
スクーリングを受講し「スクーリング試験」で所定単位を修得したので、「科目修得試験」は受験していません。(^^;) |
講義テーマ | 世界商品市場と世界金融市場の史的展開を概観する | 担当者 | 上村 能弘 | (敬称略) | |
講堂 | 法学部 本館 | 受講者数 約25名 | 夏期 中期 午後 |
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